
八戸三社大祭は5日間開催します
八戸三社大祭は7月31日(月)は前夜祭。
中心街の通りや市庁前広場に合計27台の今年製作の山車とお囃子をお披露目します。

8月1日(火)は「お通り」。
三社の神社行列と附け祭りの山車の合同運行です。中心街を通りますが先頭から最後尾まで2時間ほどかかります。
8月2日(水)は中日。
長者山新羅神社で加賀美流騎馬打球が行われます。加賀美流騎馬打球は現在では宮内庁と山形県豊烈神社とここ新羅神社だけで行われています。
市庁前広場では色々なイベントが開催されます。
中心街では山車の夜間運行が行われます。

8月3日(木)は「お還り」。
お通りとは逆の順路で中心街を合同運行します。
8月4日は(金)後夜祭。
前夜祭と同様に山車を並べて祭りの終わりを惜しみます。
お祭りの由来
三社とは、市内にある法霊山龗(ほうりょうさん おがみ)神社、長者山新羅(ちょうじゃさん しんら)神社、神明宮(しんめいぐう)の三つの神社のことです。
凶作に悩んでいた1720年(享保5年)に、この地域の有力者たちがおがみ神社に豊作を祈願したところ無事に収穫を迎えることができたということで、その御礼として翌1721年、八戸藩の許可を得て武家や町人から寄進を募り、お神輿を建造し、長者山新羅神社に渡御した(旅をしていただいた)ことが記録に残されており、この祭りの起源とされています。
やがてそのおがみ神社の行列に、藩の有力商人達が買い入れた人形などを載せた「屋台」や「虎舞い」など町人達の行列も加わるようになり、さらに明治に入ると長者山新羅神社と神明宮もそれぞれお神輿や屋台の行列を編成して祭りに加わり、まちの安泰と豊作を祈願する祭りとして形作られてきました。
「屋台」の人形は年々数が増えて、歌舞伎や民話などをモチーフにして大規模な「山車」となって各神社の行列に連なる「附け祭り」となりました。
(以上、VISITはちのへのHPを参照しました)
2年間中止の後の代替イベントと生じた課題
この三社が編成する神社行列と、それぞれの神社の氏子である各町内の附け祭りの行列を「合同運行」と呼び、この合同運行を伴った、言わばフルバージョンの八戸三社大祭が4年ぶりに復活するのです。
コロナ禍のため2020年、2021年は合同運行は中止されました。
しかし、報道されないので分からないのですが、各神社での神事は行われていたのでしょう。
そして2022年は、各町内の山車製作者が合作で1台の山車を制作し、フルバージョンの代替えイベントとして合同運行しました。
お囃子や山車制作などの技術を劣化させずに伝え続ける必要があるからです。
昨年3年ぶりのお囃子を耳にした時は染みました。
「八戸えんぶり」のお囃子もそうですが、子供の時から聞き慣れたお囃子は身体になじんでいるのです。
今年4年ぶりにフルバージョンで復活するとはいえ、地元紙の報道によると課題がいくつかあるようです。
元来、附け祭りの山車の製作から運行の管理を担う大人たちはすべてボランティアによるもので、それぞれの仕事を終えてから山車製作に参加し、合同運行の時は仕事を休んで参加しているのですが、今年は例年に較べて人数が少ないらしいです。
コロナ禍前は比較的祭りに協力的だった市内の多くの企業が、今年は社員の参加を渋っているようです。
コロナ禍で祭りが中止になったこの2年で祭りに参加する熱気や意義が薄らいだとか、人員不足で祭りに人を割けないとかが理由のようです。
山車の製作に関しては、製作者の不足の他に材料費の高騰も悩みのタネになっているそうです。
しかしながら、参加している人たちは例年以上に気合いが入っていて、人員不足を補いながら日々頑張って本番に備えています。
また附け祭りの囃し手や山車の引き子は、たくさんの小中学生や高校生が担っていました。
附け祭りは子供たちが主役と言っても良くらいですが、こちらも年々参加者が減っています。
何年も前から少子化を指摘されていました。
コロナ禍による2年の中止が追い打ちをかけました。
小さい頃から祭りに参加し、興味や楽しさや技術を覚えて、囃し手や山車作りや運行の担い手になって、やがていつかは都会に出て行くものの、夏休みは帰省したり、Uターンして地元企業に就職したりして祭りの伝統を保つ。
日本のどこでもそうやって伝統をつないできたと思いますが、生活の多様化や人口の流出に伴って難しくなっていくのでしょうか。
あと、トイレが不足するかも知れないそうです。
例年中心街での祭りでは、大型店舗や公共の施設のトイレが使われていましたが、大型店舗が2ヶ所閉店してしまいました。
商店街では市に対して仮設トイレの設置を要望しましたが、市は管理や衛生面での課題が多いとの見解だったのですが、各方面の協力により設置が決まりました。
八戸にはお祭りが必要だ!
八戸三社大祭は大本は神事であり、山車行列はそれに付随する附け祭りです。
仮に附け祭りが今後無くなったら神事は続くでしょうが、市民参加のお祭りではなくなります。
7月に入ると、炎天下では山車作りに汗をかく大人たちが、夕暮れにはお囃子の練習する子供たちの姿があちらこちらの町内でみられます。
300年続いている伝統を絶やせないと言う思いとは別に、年に5日間のお祭りを楽しみたいとか、立派な山車を作って観に来た人たちに喜んでいただきたいとか、時代に合わせた祭り作りも考えようとかのいろいろな思いや行動が、結果として街を活性させることになります。
どこもそうだろうけど、お祭りを通して故郷の良さを再認識することはあります。
立派なお祭りが次第に衰退することは、街も衰退する方向に動いていると考えて間違いではありません。
お祭りを盛り上げようとする市民の心が、街を盛り上げるいしずえになり得ると思う。
街に人が増え賑やかになることは、いつかは産業も企業も賑やかになって行くのであり、八戸三社大祭はまちの安泰と豊作を祈願する祭りであって、そのために続いてきたお祭りなのです。