八戸えんぶり2023

2月17日から20日まで、八戸市の冬のお祭り「八戸えんぶり」が3年ぶりに開催されました。

八戸えんぶり
青森県観光情報サイト Amazing AOMORIより

八戸えんぶりとは?

鎌倉初期、甲斐国(今の山梨県の一部)の南部郷(なんぶごう)という土地を治めていた南部光行(なんぶみつゆき)という武将が、奧州合戦(源頼朝と奥州藤原氏の戦い)で戦功をあげて、陸奥国の一部、今の青森県南から岩手県南を与えられ、この地方を治めることになりました。
以来、この地方の呼び名は陸奥国に変わりがないものの、甲斐国の南部地域と同様に「南部」とも呼ぶようになります。

えんぶりは、南部氏が初めて当地での正月(旧正月)を迎えた宴の席で、酔った家来たちが勢いで喧嘩を始め、これを治めるために藤九郎(とうくろう)という農民が機転をきかせて、当地に伝わる田植え唄を歌い農具を持って踊った、というのが始まりと言われています。
また、藤九郎は元々南部家の家臣で、彼の出身地である佐渡島に伝わっていた「えんぶり」という名の田植え踊りを得意として、既に甲斐国時代から旧正月には殿様に披露していた、という説もあります。

いずれにしても、八戸地域のえんぶりは、田植え唄と田植え踊りであり、鎌倉時代から行われていたようです。
そしてそれは、田植えの初めから収穫までを表現し、最後は田植えに大事な水が田から漏れないようにお祈りして終わるのだそうです。

踊りの表現はそれぞれの部落で受け継いできたものがあり、えんぶり組により違いがあるらしいですが、共通するのは今年も豊年であったと喜び、神様と自然に感謝する前祝いの演舞であることです。

その後、田植え唄と踊りは、各々の部落内で何百年と続いていましたが、明治時代になると禁止されます。
門付けの風習や、暦が新暦になったことで新しい時代に相応しい行事ではないと判断されたようですが、旧藩士の大澤多門(おおさわたもん)という人が、”農民が気候的に田植えに不向きなこの土地で、ただ豊年を願うのではなく、豊年になったと喜ぶ前祝いの神事であり、とても大事で希有な行事なのである”と新政府と交渉し認めさせました。

そうして各部落の田植え唄や踊りは民間芸能から神事になり、豊年祭として神社に奉納し、おめでたい行事としては地域の住民にも披露していくお祭りになってきたようです。

ただ、南部藩の行事ではなく、あくまでも八戸と周辺の地域での行事だったようです。
また、いつから烏帽子をかぶるようになったのか、なぜ烏帽子は二種類なのか、子供達の祝いの舞いがいつから参加するようになったのか、等々詳しい資料はないようです。 

なにしろ、戦国時代に当時の居城であった三戸(さんのへ)の聖寿寺館(しょうじゅじだて)が火災になり、それまでの資料が焼失してしまったのです。
ですから南部の歴史は、鎌倉~江戸幕府の資料、家臣の日記や伝聞を書き留めたもの、付き合いのあった大名家に伝わる資料などを基に構築されたもので、地元の郷土史家の皆さんは今でも熱心に南部家の研究をされています。
民間の資料は尚更少ないものと思われます。

ちなみに「えんぶり」という言葉は、農耕具の「朳(えぶり)」が語源と言われています。

歩道には多くの観客。車道にえんぶり組の行列。赤い幟は各えんぶり組。

晴天は天が味方したのか!

今年、3年ぶりの八戸えんぶりは、31組のえんぶり組が参加しました。
そして嘘のような好天気に恵まれました。
雪やみぞれの中で行われることがほとんどのお祭りです。
人出も4日間で296,000人だったそうです。
えんぶり組の皆さんも観客の皆さんも、待ちに待ったという様子でした。

主催する八戸えんぶり保存振興会の会長は、コロナ過を経て3年ぶり開催の17日朝、目覚めたときの晴天を「天が味方してくれた」と思ったそうです。
中止の間、唄や踊りの質が下がってはいけないと、伝統を引き継いで練習してきた関係者の皆さんも大いに喜び、気合いが上がったに違いありません。

僕も楽しみにしていました。
正直に言うと若い頃は興味を感じなかったのですが、中年を過ぎた辺りから段々感動を覚えるようになりました。

えんぶりは感動する!

動きのある写真を撮るのは難しい
南京玉すだれ的な芸を披露 練習を重ねた成果が現れていた
大黒踊りは華やかな衣装で目にも暖かい
ベテランの風格で福を授けてくれました

烏帽子をかぶり舞う男衆は「太夫(たゆう)」と呼ばれます。
その先頭に立つのが「藤九郎」です。

舞いの初めは、田をならす様を表現しています。
田をならす農具が「朳(えぶり)」です。
冬の間眠っている田の神に起きていただき、田に農民の魂を込めるのだそうです。
太夫の舞いは、厳かであり力強くもあります。

烏帽子は馬の頭を表しているそうです。
冬も終わりだ、春は近いぞ、と喜んで躍動しているように思えます。

田植えの初めから収穫までの舞いの間に、子供たちやベテランの舞手による祝いの舞いがあります。
大黒舞い、恵比寿舞い、松の舞いなどで、それぞれ舞手が代わります。
小学生から中学生くらいの子供たちが、見事に歌い、舞います。
観客の中には、元気溌剌に舞う子供達の姿に涙ぐむ人もいるくらいです。

恵比寿舞いになると、田植え踊りなのに、鯛を釣る様子を踊りにします。
鯛は、家が豊かになるようにとの願いの象徴です。
恵比寿様は、釣れそうな場所探しから始まり、始めは変な物を釣りますが最後は大物の鯛を釣ったり、沿道の観客に飴を蒔いたりして笑いをとり、福を振りまきます。
色鮮やかな衣装とお囃子が相まって、春を感じる祝いの舞いです。

そして、また太夫の舞いが始まり、演舞の終わりをむかえます。

八戸えんぶりは大事なお祭り

八戸えんぶりは、毎年2月17日から2月20日の4日間と決まっています。
2月17日は、市内の小中学校は休校になります。
えんぶりに参加したり、見学したりして、伝統を絶やさないようにとの考えだと思います。

開催前、地元の各テレビ局は練習風景を取材しローカルニュースで報道します。
画面からは、教える大人の厳しさや優しさと、教わる子供達の真剣さが伝わってきて、伝統芸能を伝える誇りを感じます。

僕は、八戸えんぶりを見て感動し、八戸に移住してきたという人を2人知っています。
1人は宮城県から、1人は北海道から。
感動するという気持ちはとても良く分かります。
また、お祭りの形を通じて、お米を大事にする気持ちを育んでいることにも繋がるような気がします。

素晴らしい行事ではないでしょうか。

八戸えんぶりは春を呼ぶ

このお祭りの前後から、八戸地域は気温も上がり傾向になります。
昔からの経験で、この気候に合わせて、えんぶりを行うことを決めていたのかも知れません。
田植え踊りが春を呼ぶのか、春が田植え踊りをさせるのか。
いずれにしても自然の営みの中にあります。

気温は上がり傾向になりますが、春らしさはもう少し先です。
この辺りの地方には「彼岸じゃらく」という言葉があります。
3月中旬からお彼岸を挟んで月末までに、大抵は3度ほど大雪が降ります。
気温が上がっているせいで、湿り気を多く含んで重い雪です。

その「彼岸じゃらく」を経て、光景はようやく本格的に春の色合いになっていきます。

八戸えんぶりは人が主役

青森県内のお祭りで考えると、青森ねぶた、弘前ねぷた、五所川原立佞武多 、田名部まつり、三沢航空ショーなど、いずれも出し物を楽しむお祭りです。
特に五所川原立佞武多は、その山車の大きさに圧倒されます。

八戸えんぶりは芸能です。
太夫を始めとして子供たちやお囃子が、伝えられてきた踊りと唄を披露します。
だから人が主役です。

沿道の多くの写真家たちは、人にカメラを向けています。
アングルとしては、引いてもアップでも絵になります。
是非とも多くの写真家たちにネットを賑やかにして、宣伝していただきたいと思います。

八戸えんぶりは国指定重要無形民俗文化財に指定されていますが、重要無形民俗文化財になっても良い位に希有なお祭りだと思います。

こういう伝統芸能が何百年もこの地域に根付いていることは、この地域の人々が素朴で尊い人間性を持っていると僕は思っているのです。

八戸の誇りです。